

神学校ニュース
ディボーションの深み
東京神学校校長 尾山 令仁
御言葉の適用と実践をもたらすディボーション
今日、わが国でも、クリスチャンの間にディボーションが行なわれるようになったことは喜ばしいことです。以前はクリスチャンと言っても、ほとんど聖書も読まず、祈りも形だけの人が多かったことを思うと、本当に嬉しいことです。しかしながら、そういう人々でも、ディボーションの分かち合いをすると、聖書から直接示されたという人はほとんどなく、ディボーションの手引き書の中に書かれていた文章から教えられたというあかしばかりなのです。ディボーションにおいて大事なことは、御言葉から教えられ、それを自分に適用し、実践することです。
私がアジアの人々への謝罪運動を始めたのも、朝のディボーションで、主から示されたからです。その日、私はマタイによる福音書5章23-24節を読んでおりました。そこには、このように記されておりました。
「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでい
ることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの
兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげものを献げなさい。」
ここを読みながら、私は日本の歴史を思い出しておりました。私たちが学校で教えられた日本の近代史は、ヨーロッパの列強に仲間入りした栄光の歴史でした。しかし、その裏には、恥辱の歴史があったのです。そういうことは、どの国でも子供たちには教えません。ですから、学校で教えられたことだけがすべてであると思っている人には気が付きません。どんな事柄にも表だけではなく、裏があるのです。それを知る努力をしなければ、結局は真実の一面しか知らない薄っぺらな人間になってしまいます。
わが国の近代化百数十年の歴史は、アジアの人々と協力して、ヨーロッパの列強に立ち向うという道を選ばす(そう主張する勝海舟のような人もいたのですが)、アジアから抜け出して、ヨーロッパの列強の仲間入りをする道を選びました。こうして、アジア、アフリカを通じて、唯一の植民地保有国となったのです。そして、ヨーロッパの植民地となることは免れることはできましたが、朝鮮半島、台湾を植民地とし、その人々を筆舌に尽くしがたいほど痛めつけてきたのです。中国に対しては、台湾を植民地化しただけでなく、中国大陸を侵略していったのです。
ですから、私は、アジアの人々、とくに韓国、北朝鮮、中国の人々から、私たち日本人は恨まれているということを知っていました。「祭壇にささげ物を献ける」というのは、礼拝のことで、私たちクリスチャンにとって礼拝は何ものにも勝る優先事項です。それよりも先にしておかなければならないことがあると言うのです。いくら私たちが熱心に礼拝をささげても、主はそれを受け入れてはくださらないわけですから、私はアジアの人々への謝罪運動を始めることを決心しました。そのころのわが国のキリスト教界の大勢は、「そんなことは、政治家のすることであって、牧師は福音を宣べ伝えていればいいのだ」と言うものでした。しかし、私は、ディボーションで示された主の御心に従い、アジアの人々への謝罪運動を提唱し、これを実行してまいりました。
ディボーションによる教会形成
聖書によれば、伝道するのも牧会して教会を建て上げるのも、信徒であり、牧師の務めは、信徒がそのように出来る信徒となるように教育、訓練することであると教えられております(エペソ4:11-13)。そうであるとすれば、牧師は何をおいても、まず信徒に正しいディボーションの持ち方を教えなければなりません。
最近の調査によると、牧師でも朝のディボーションを本当にやっている人は、全体の5パーセントにすぎないということです。これはアメリカでの話ですが、全世界どこででも、このようにわずかな牧師しか、本当のディボーションを持っていないという状況ではないかと思います。つまり、ほとんどの牧師は、ディボーションを毎日持ってはいるのですが、自分のためにではなく、説教準備のためなどにそれをしていると言うのです。
こういう牧師では、信徒のディボーションについての指導は、ほとんど出来ていないと思います。そういう牧師は、信徒にディボーションの手引き書を紹介して、それで終りとしています。たとえば、アッパー・ルームなどです。そういう本が悪いと言うのではありません。神の御心を聞くディボーションの持ち方は、帰納的ディボーションです。私は「現代訳聖書」を使ってディボーションを持つ人々のために、その手引書を書きました。そのほとんどが質問の形になっていて、メッセージは一切入っていません。聖書から主が示してくださることを受け取るようにしています。それは、「聖書の講解(改訂版)」です。
信徒が毎日、主から示されることを自分に適用し、実践していく時、聖書に基づいた教会形成ができるのです。聖霊による一致が与えられます。
この御霊による一致も、私はディボーションで主によって示されたことでした。ヨハネによる福音書17章を読んでいた時、この箇所は、主イエスが訣別説教をされた後で、父なる神にささげられた祈りですから、非常に重要な祈りです。この中で、主イエスは2回も、弟子たちの一致を祈っておられます。
ある時、やはりディボーションで聖書を読んでいた時(マルコ 9:38-42)、ヨハネが主イエスの所へ来て、「主イエスのお名前を使って悪霊を追い出している人たちがいましたが、自分たちの仲間ではないので、やめさせました」と言った時、主イエスは、「やめさせる必要はない。わたしたちに反対しない者はわしたちの味方です」と仰せられました。その時、私はハッと気付きました。リベラルなクリスチャンも、カトリックやギリシャ正教会の人々もみんな味方なんだということを。
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なぜクリスチャンになる人は少いのか
クリスチャンになるということは、ただクリスチャンになろうと自分で思ったらなれるというものではない。キリストの十字架上の死が、自分の罪のための身代りの死なのだということが分らなければならないのである。キリストが十字架上で今から二千年前に死なれたということを認めることは、別に信仰も何も必要とはしない。キリスト教以外の資料も含め、調べてみれば分ることだからである。
ところで、キリストの十字架での死が私の罪の身代りであったということは、そのこととは別のことである。まず自分が罪人であるということの認識から始まらなければならない。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。
人間はだれでも罪人であるということについては分っていても、自分がいかに恐ろしい罪人であるかということが分らなければ、生れ変りと言う信仰体験をすることができない。自分が滅んでしまわなければならない罪人なのだということが本当に分ると、どこに救いがあるのかと、真剣に探し求めるようになるはずだ。
そして、罪のない神の御子が天からこの世に降りて来られ、私たちの罪を身代りに背負って、その罪の刑罰として十字架上で死なれたということが分った時、聖霊の神は、私たちの心の目を開いて、この驚くべき救いの真理を悟らせてくださるのである。こうして、その時、聖霊の神が私たちを生れ変らせてくださるわけである。
こういうプロセスが一つ一つ取られなくても、聖霊による生れ変りという体験をすれば、だれでもクリスチャンになれる。その聖霊による生れ変りの体験には、先に述べたことが含まれている。ほかの宗教のようにご利益を目指して、その宗教を信じるのとは違う。自分の罪を知り、その罪を身代りに背負って、十字架上で父なる神からの裁きを受けて死んでくださったイエス・キリストを信じるなら、だれでも聖霊の神が生れ変らせてくださり、クリスチャンになることができる。その生れ変った人が洗礼を受けて、個々の教会の会員となるのである。
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